ルイス・キャロル − 数学者ドジスンである『アリス』作者

b00e3038.jpg『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』、この二部作を知らない人はないであろう。
作者ルイス・キャロルが本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジスンという数学者であったことも有名である。

アリスのモデルになったのは、実在のアリス・リデルという少女。
キャロルは暇さえあれば、このアリスを川端までいざない、他愛のない話を聞かせては楽しんだ。
それを纏めたのが『アリス』なのであるが。

もうここまで書けば、くどくは言う必要もあるまい。
キャロルは少女愛性向、平たく言えばロリータコンプレックス(のファクターを強く有する人物)だったのである。
実際キャロルは写真家としても知られ、少女のヌード写真も多く撮っていた。
いやいや、今日だったら大変なことになるが。

ここで話にするのが、その今日のことである。
先般死刑が確定した宮崎勤被告の出現以来、少女愛性向は極めて旗色の悪い状況下に置かれている。
「『ロリータ』は犯罪だ」などと、真顔で言う人さえもある始末だ。
ちょっと考えれば冷静になれるのであろうが。

ちょっと他所の子に近づいただけで物議をかもし出すことになる…
このような時代に生まれた少女たちこそ不幸である。
幼いものというのは可愛いものだ。
幼児期というのは人から可愛がられるよう天から与えられた期間だ、と言えば文学的になろう。
可愛がられるべき時期にその機会を得られなかった損失は、長寿時代の長き人生を終わるまで負の資産として残る。

一部犯罪者のために、このような風潮が…
なんとも嘆かわしい限りである。
蛇足ながら、幸いにして論者は幼児期、ちゃんと可愛がられてきた。
念のために付け加える。

人間、思うなと命令されても思うことは思う。
思えと命令されても、思わないことは思わない。
こればかりは仕方ない。
仕方ない、はずなのだが…

未だかつて地球上には、人の心の中まで支配できる権力は存在しない。
過酷な支配を受けてきた古代の奴隷たちも、心の中までは支配されはしなかった。
思えば。
『心の中まで支配できる権力』に最も近い権力が出現し始めているのは、現代なのかもしれない。



posted by homer_2006 | サディズムに花束を!


フェムドムと逆転

フィーメール・ドミネーションのキーワードの一つとしてあげられるのが『逆転』である。
即ち、小柄なはずの女性が男性を上回る、非力な女性が荒事で男性を凌駕する、そして宿命ともいえる性器の形状においてもペニスバンドの装備によりその逆転を可能にさせしむる、というものだ。

大きなファクターである。
がしかし、フェムドムには『逆転』が不可欠というわけでもない。
それどころか、あまり逆転にこだわりすぎると、男性の女装癖・女性の男装癖のような『役割逆転の倒錯』へと変質してしまう危惧すらある。
漠然としたか? 流行の『男性受け』とか『逆レイプ』とか言われている範疇のことを言った。

我が国においてこれらが出現してきた背景として、男女両性ともに中性化しつつあることが考えられるよう。
さらにその中性化の原因を歴史的に掘り下げるに、敗戦後の占領軍の持ち込んだデモクラシーの思想が遠因しているのである。
とうの昔に独立国である日本。
しかし、精神世界における米国支配は未だ続いているのである。
いや、それどころか、時をおうごとに一層激しさを増しているとさえ言えよう。

話を戻そう。
男女両性ともに完全に中性化してしまったとなったら、逆転など生ずる可能性すら消滅する。
いや、それどころの話ではなくなる。まあ、敢て言うまでもなかろうが。
だが、幸い我が日本には…

ますらおぶり、たおやめぶり。
言葉さえピンとこない向きもあろうが、これが日本伝統の男女のありようだ。
先ずは、この復権だ。
これを実現せねば国が滅ぶ、論者は繰り返している。

さて、たおやめがますらおを支配する、日本型フェムダム。
いかなるものにあいなろう?
今の段階では、せいぜい文学作品でしか語れないような、この世界に思いを馳せるのも一興ではないのだろうか。


posted by homer_2006 | サディズムに花束を!


進化するコミュニケーション

 フェティシズムというのは、ある種のこだわりの自己主張。

 だから個人差もあるだろうし、一概には規定しにくいものだと思うのですが、誰にもあてはまりそうな部分での普遍化を試みて、その数や種類をチャート化したのが先日のマップでした。これには当然のことながら、無数バリエーションがありえるだろうし、ある人だけに通用するカスタマイズも可能でしょう。実際、オリジナルサイトでは、このマップは変化し進化することを想定しているようです。

 このマップをしげしげと眺めていると、「なるほど!」と思えたりする部分もあれば、「え?なんでなんで?!?」みたいなところもあります。それはまた、人によって異なってくるんでしょうね。

 例えば、愛護と虐待が相関関係にあるというのは、「かわいさあまって憎さ百倍」的な感情の説明に合理的な裏付けを感じさせると同時に、不可解な人間心理の奥深さも物語っているようにも思えます。

 人の心の中というのは、


元来が不可思議なもの

なのであって、合理的な説明などそう簡単には出来そうで出来ないはずなのに、それを承知で悪あがきのように云々カンヌン言ってみたり、考えてみたりしてきたのが哲学や心理学の歴史だったのではないでしょうか...。
 
 人間のコミュニケーションのやりかたは時代とともに変化・発展してきました。

パソコン通信などから始まり現在に至る高度情報化社会の台頭により、その手段や性質も激的なうねりをみせてきているような印象です。

 な〜んて書くと大げさに聞こえてしまうかもしれませんが、噛み砕いて言うと、例えばmixiやブログでのやりとりの中には、普段の会話ではなかなか聞けない「本音トーク」的な部分が見え隠れして、

「云々カンヌン」レベルの内容がグレードアップ

してるのではないかな? ということです。
 
 濃いですよね。 少なくとも昭和の時代より。

 そこからまた新しい発見なり意識や思考の進展が期待できるような気がしています。
posted by homer_2006 | マゾヒズムに花束を!
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