徳川吉宗 − ドラマにはならぬ『暴れん坊将軍』もう一つの顔

204c1e94.jpg直前投稿より続ける。
徳川8代将軍・吉宗、この名君も忌むべき性癖があった。
サディスティクな彼はなんと辻斬りを好んだというのである。

辻斬り… 刃物に対する偏執がサディズムと結びついたものと言えるであろう。
そして、男性型の殺人淫楽と言えるか?
男性は概して刃物を好む。昔の男の子は殆ど例外なく肥後の守を宝物にしていた。
まあ刀の手入れは精神修養にもなるし、それはそれで構わない。
だが、実際に切れ味を試してみたくなると…
ともあれ、余り歴史には記録されていない話だ。

さて見かけは類似していても、吉宗のサディズムは秀次のそれとは性質を異にするものであろう。
これに近いのは秀吉のサディズムだ。
ともに成り上がった。だから権力からずり落ちることを異様に怖れ、その鬱積が他に向く。
権力に偏執するのは男性的である。

秀次類似の、実在するより大きな権力に怯え弱いもので鬱憤を晴らす、女性型サディズムの持ち主をあげるなら、徳川家康の長男・岡崎信康であろう。
信康も舅・信長に怯え、粗暴な振る舞いを続けた。
ある折、一人の僧を嬲り殺しにした信康はこう嘯いたという。

「岐阜の舅殿も叡山で何万の僧を殺したのだから…」

その話を聞きつけた信長は真顔になる。

「それは違うぞ。あの者たちは僧の形をした無頼の徒。再三再四の勧告にも拘らず一向に改まらないもので止むを得ず成敗した。余は己自身の勘気から只の一人の僧も殺したことはない …困ったものよ」

他に主目的のある虐待は、一見サディズムに似て実の処は似ても似つかないものである。




posted by homer_2006 | サディズムに花束を!


O嬢の物語

O嬢の物語

河出書房新社

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 ざっくばらんに言うなら、無垢な女性がサディストたちの餌食になりながら、マゾヒズムに目覚めさせられていく過程が描かれており、S男性なら言われなくても読みたくなるようなお話。そしてこの作品は、澁澤さんが熱心に絶賛していたこともあり、日本では仏文学愛好者の間で比較的よく読まれてきた。今さら僕みたいな知性と教養もない、しかもへたれM男の立場でなんだかんだ言える筋合いのものではなかろう、というご指摘はごもっともだと自分でも思います。

 だけど、マゾ男だからこの作品を読んではいけない!などとは誰が言えましょうや! ましてや理解できないなどとワッ!!!

 ついリキんじゃいましたが、とにかく、普通の女性が巧みにMに目覚めさせられていくプロセスは、SMとは無縁の一般読者にも、この世界の精神的理解の裨益となるはずと思うわけです。それ以上に、マゾヒズムを理解し愛するM男性にとっても、エレガントな感動が味わえる作品であることを強調しておきたい。

 ここには「鞭で打たれて喜ぶ変態マゾ」という通俗的な偏見はない。背徳的だが美しい愛の世界であり、クオリティの高い恋愛小説として読めます。

 ただ、発表された1954年(昭和29年)当時の日本には、澁澤龍彦以外にこの偉大な作品を正当に評価できる人はいなかった。全世界でセンセーションを巻き起こしていた「O嬢の物語」の作品世界が、この国で一般的に受け入れられるには、あと20年を要したのです。

 1974年「エマニエル夫人」の監督によって映画化され、エロティックな文学作品のひとつとしても広く世に知られるようになります。ここでようやく日本でも、SM文学のバイブル的ステータスを獲得するものの、依然として「S趣味のある男性向けポルノ」といった見方がやや優勢なのかもしれない。もちろんそのような楽しみ方も妥当だし、否定はしませんが、作者のポリーヌ・レアージュは、どちらかというと女性読者を意識してこの作品を、O嬢を描いているように感じます。「恋愛の過程で貴女にマゾヒズム願望が芽生えたとしても、それは普通の愛情表現となんら異なるものでありませんよ」というメッセージが受け取れます。これは FemDom 願望を抱くM男性の心にもしみる言葉です。僕としても自分のマゾヒズム願望の本質的な部分と重なり、「毛皮を着たヴィーナス」と並ぶ座右の書となっております。

 男女を問わず、読み手がSであろうがMであろうが、普遍的に優れて上品なマゾヒズムの入門書という位置づけで評価したい作品です。


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posted by homer_2006 | Comment(0) | マゾヒズムに花束を!
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