裁判は究極のSMショウ?

偶には時事問題を挟もう。

436c5cb4.jpgオウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫被告の死刑確定の可能性が強まったようだ。
ひどい話である。
仮にも人一人の命の懸かっている法廷の場が、法曹の駆け引きの場に利用されていいわけがない。
もとより、所謂オウム裁判においては、裁判とは何かと疑わされる傾向が強かった。
例えば、死刑が確定したある被告の判決理由など、逮捕前に出ていた週刊誌の特集号そのままという感じだった。
こんなことで人の命を奪ってよいものであろうかと疑問に思っていたのだが、今回の東京高裁の決定で来るところまできてしまったかと憤っている処だ。

断っておくが、論者は死刑廃止論者ではない。
光・母子殺害事件などを見る限り、死刑制度は存続すべきだと考える。
だからこそ慎重が上にも慎重でなければならないと言っているのだ。
人が公権力を使って人の命を奪うのである。一切の感情の介入は許されないのだ。

裁判は究極のSMショウだなど発言している人を見たことがある。
不謹慎な話だ。なによりも大間違いだし。

勿論心の中でそう思うのは自由だ。
何人の人を殺しても全く罰せられることのない世界で、滝の白糸の男女を置き換えて女性裁判官に裁かれる自分をイメージし楽しむマゾ男性を責めはしない。
だが、本質だけは誤ってはならない。人は間違いをする動物、その間違いが絶対にあってはならない司法の場なのである。

そこにリビドーの極とも言えるSMを絡ませた件の発言者にも併せて猛省を促したい。


注* 画像は転載者の判断で加えました。元文にはありません。



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