八百屋お七 − 火付けの真意は果たして?

bda1e369.jpg「火事と喧嘩は江戸の花」
当時人口世界一であったこの木造都市は宿命的に大火に見舞われた。
中でも天和2年(1682)のそれは、本郷の八百屋の娘・お七の放火による大火である。
演劇等で有名な逸話であるので、くどく述べる必要もあるまい。
恋しい寺小姓に会いたいがために、火をつけたと伝えられる。
文字通りの燃える恋、西鶴の『好色五人女』の中でも一番有名な彼女だ。

ということになっているのだが、そう言い切ってよいのであろうか?
論者は些か腑に落ちない。
極々初歩的な話だ。因果が結びつかないのである。
即ち彼女の目的達成の前には、@火事で近隣が丸々焼ける A且つ自分は無傷で非難できる B小姓の寺にまで火が及ばない
の三つの偶発事象を全て引き当てなければならないという、関所が立ちふさがるのだ。
しかも仮にこの関所を超えたとしてもその先、同じ寺が避難所になる保障もないのである。
余りにも原価性のない意思決定ではなかろうか?

寺小姓に会うための手段なら他にないわけでもあるまいに。
いかに恋は盲目とはいえ、こうまで狂ってしまうものなのだろうか?
逆に、ここまで狂ってたとしたら、放火などという綿密な計画と実行力の要る犯罪が実行できたであろうか?
他のモチベーションがあったと考えるほうが尤もらしい。

ずばり結論を言えば、お七という娘は放火マニア…
汚涜症の一種にして、更に大元の括りはサディズム、パソリーの稿で論じたあれであろう。
勿論、恋もあったろう。だがそれよりも、彼女は…
先の火事で垣間見た、町を呑み尽くす紅蓮の炎に魅せられてしまったのではないだろうか?
果ては火あぶりの刑に処せられると知りつつも止めることができないほどに。

論者にはそう思える。

八百屋お七の火付けは、恋というよりは故意、
別ブログなら差し詰め、この種の語呂合わせで締めるであろう本稿だ。



posted by homer_2006 | サディズムに花束を!
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