岡本千鶴子 − 自ら手にかけた娘を含む五遺体と同居

fe2aa1c0.JPG念のために繰り返すが、本ブログは事件報道を目的とするものではない。
少なくとも立ち上げた時点では、そのような意図はなかった。
が、蓋をあけてみると…
と断ったとおり、本稿の論材もサイト開設時には人々の知るところではなかった歴史的事実である。

奇しくも、過去稿・会田美喜の事件に極めて違い場所で起こった歴史事実、時系列的にはこちらの方が少し前になる。
事実状態が不詳であったので少し待ってみた。
にも拘らず、判ったことは副題にしたことくらい、それだけ怪奇な事例であるといえよう。

とは言うものの、本件岡本の事例は心理背景に限っては説明がつきやすい。
殺人(サディズム)と屍体フェチシズムが結びついた症状…
論じたとおり、この二つは非常に結びつきやすいのである。何となれば、屍体愛好の心裏がなければ殺人などというとてつもなく原価性に乏しい行為に及ぶわけがないのだから。

そして、彼女のそれは極めて女性的なもの、ベラ・レンツィのそれと同類であるといえよう。
溺愛する娘を手にかけたこともさることながら、実の子と推定される遺体と何十年も同居し続けたことである。
見方によれば、情が深い。
死んだ、ガスで焼いてしまう、という通例を容認できなかったとするなら、死んだ小猿をミイラなるまで抱いたままでいる母猿の行動にも似る。
更に言えば、屍体崇拝の心裏もまた万人が持つものである。特に仏教徒はそれが強い。(遺骨、遺灰、釈迦の骨である舎利など)

だが、いうまでもなく、程度の問題だ。
その基準を論者が示すことは、おこがましい限りであるので、制度面で踏み込もう。死者は墓所に葬らなければならぬと法律で決まっている。
決まっている以上は、個人的嗜好いかんに拘らず従わざるを得ないだろう。人はエテ公ではないのである。

いつまでも忘れないことも供養なら、忘れることもまた供養ではないか?
ここに『偲ぶ』という言葉がある。


posted by homer_2006 | サディズムに花束を!
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。