死の本能

殺人 〜究極にして最も純然たるサディズム …
つい先だって、6月20日の投稿である。
その後も起きること、起きること!
奈良・田原本の放火殺人、大阪の学生グループによる岡山での生き埋め殺人、そして香川の…

何ゆえに、かくもまた?
思えば、人が死について学習する機会が少なくなってしまったのが起因しているように思料する。
死についての実感がないので歯止めがなく、人を死にいたらしむるということだ。

論者自身もまた、臍の緒切ってこのかた目の前で人が死ぬのを見たことがない一人だ。
別に驚くには足りまい。論者の両親ですら同様なのであるから。
我が家において、この体験があるのは戦争を体験した祖父母の世代となる。
これが原始以来つい近代までの期間においては、全く事情が異なる。

すなわち人は、幼児期より身近な人間の死を目の当たりにする機会を有していた。
兄弟姉妹が死ぬ、(当然のこととして同居している)祖父母が死ぬ… それを実感する。
我の事情に彼の例を当てはめるのも何であるのであるが、メーテルリンクの戯曲『青い鳥』を読めば、そこらの事情は分かるであろう。
兄チルチルは自らの体験から妹ミチルに死というもの概念を正確に説明している。
が、論者、いや、両親すらもそれが出来ぬ現代なのだ。
多産多死人口構成の変化、核家族化、医療の進歩等々理由は多々あるのだが、ともかく事実として死というものを知る機会がなくなってしまったのである。

人間のみに限らず、ありとあらゆる生物には『死の本能』というのがある。
実はこの『死の本能』、大いにSMと関係がある、というよりそのものなのであるのだが、ここでの詳述は割愛して結びに続けよう。
本能のみが先走り学習する機会がなくなって来たとなれば、昨今凶悪事件に見るような歪んだ形での『死の本能』発露も無理からぬことではないのだろうか?


posted by homer_2006 | サディズムに花束を!
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