『家畜人ヤプー』論

本稿は、かの奇書に端する論述にあてる。
過去稿に於いても随所に登場させてきたか?
別ブログでも注力的に取り上げた。

冒頭論者は奇書と評した。(しばしば冠されている)『マゾヒズム文学』ではなく。
そう、論者の思うところの同書は風刺なのである。
先ずは、そのあたりの事情に関し、できるだけ「思う」次元ではない客観的な切り口で展開しよう。

「イース人は(完璧に道具として使っているので)無闇にヤプーをいじめたりしないよ」

掲示板サイトで、何気なく目にした書き込みだ。
いや、これも目から鱗の世界なのであるが。
即ち、イース人の支配に目を向ける限りは、サディズムの要因はないのである。
つまりは、こういうこと。
どんな淑やかな女性でも、自転車のサドルに跨るときに「苦しい思いをさせて可哀想」とは思わない、下着をつけるときに「汚いものを押し付けてごめんなさい」とは言わない、イース人がヤプーを使役するのはこれと同じ感覚(という設定)なのである。
そのヤプーに我と我が身を置き換えて(屈辱・苦痛に)昂ぶる人の心理態度がマゾヒズムということだ。
蛇足ながら、もう一言続けようか。
もし、『ヤプー』がマゾヒズム文学だ(というのが絶対的な評価だ)とするなら、(その理屈でいえば)婦人靴製造者は『フェチ業者』ということになってしまう。
何がいいたいか?
マゾヒズム文学という評価は、専ら受け手の心因にのみ即した冠付だということである。

とまあ、かくの如しであるので、ここまでは序論の位置づけとして続けよう。

既にトピックスとしたように現在、江川達也の手により家畜人ヤプーの漫画化が進んでいる。
残念なことに、あまり評判がよくないことと、その理由については阿部進の稿の結びに触れた。
冗長メディアの典型例…

時に、ヤプーの漫画化の先駆者は江川ではない。
石ノ森章太郎により、とうの昔に実現しているのだ。
冊数にして全4巻、手許にある。
嵩張る宿命にさらされる漫画本ということを鑑みれば、たったの4巻である。
にもかかわらずだ。
ちゃんと家畜人ヤプー全般が描かれているのである。ヤプーフリーク諸氏が嫌いぬいている後半部を含めて。
勿論、石ノ森マンガの体もなしている。

これが、巨人漫画家の力量ということか?
漫画の造詣は深くない論者のこと疑問形にとどめるが。
阿部進の稿の発展である。創作にメディアの垣根などない、ということが言いたいのだ。
屁ッ鉾ほど、メディアを選びたがる、テーマに固執する、と言っているのだ。

本論部分の結論は…
性癖なるものを積極的に持ち出し派閥を作ろうとする、更にはテキスト創作の作画のと垣根を引く、あまつさえ(同じ画像であるにも関わらず)CGだ実写だとリトマス試験紙的な色分けをする、こうした『いつもの創作家』たちへの警鐘である。



posted by homer_2006 | サディズムに花束を!
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。