イエス・キリスト − 敢えて副題は付せず

3fcf006a.jpg論者は宗教嫌いにして欧米嫌いである。
本稿においても、その立場一点張りで押し通すので、含んで読まれたい。

宗教とは人を幸せにするものであるとか、よく言われることだ。
だから、宗教関係者が犯罪その他の不祥事を起こすと、とんでもないバッシングがくる。
伝統ある宗教なら、個人的バッシングにとどまるのであるが、そうでない場合は…
その『新興宗教』はカルトと位置づけられ社会悪になる。
そして、全員に脱会が薦められ、既存宗教に宗旨替えすることが善という価値観一色に染まる。

抽象的過ぎたか。
「元オウム信者の○○は、牧師のケアによりマインドコントロールをとかれ、カトリック信者になった。めでたし、めでたし」
という具合にだ。

言わせればとんでもない話だ。もし本気で言っているなら、物を知らない証拠である。
お釈迦様もイエス様も、(自分が)人を幸せにするなどとは言ってない。
特に本稿主役のイエス・キリストに代表するなら、

「むしろ剣なり」

であるか?
地に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た…
念には念をということで断り書きを入れるなら、このマタイの福音書 10章34節〜39節の解釈をしようというのではない。
ましてや、偉い牧師さんがたがした同節の解釈にケチをつけようという趣旨は、爪の先ほどもありはしない。
キリスト教が、クリスチャンが、人殺しをしなかったか? と問いかけているのである。

ある命題が偽であることを証明するためには、たった一つの反例をあげればよい。
十字軍、これだけ挙げれば十分な証明となる。
人殺しを容認している訳であるはずがないのに、さりとて明確に禁忌とすることもできない。
そこらが(キリスト教に限らず)宗教、といったところであろう。

万物の霊長といっても、人間とて生き物だ。
食料とするために生物を殺す。その食料が不足すれば、今度はその争奪のために人間どおしで戦う。
その為に、闘争本能というものが備わっている。そうでなければ、とうに昔に人間は絶滅している。闘争心は悪ではない。
そして、その昇華のために必然性がなくても争うことも。これまた悪とは言い切れまい。鍛えておかなければ、いざというときに機能しないから。
更には、争うことが悪ということになると、今度は屈折した形で発露させるのである。すなわち…

サディズム、マゾヒズム、本ブログのテーマである。

さて、大胆不敵且つ不遜に結論づけるとすれば。
キリスト教というのはヨーロッパ個人主義の免罪符であると思えるのだ。

「牛や豚は人間の食料として神様が創ってくださった物」

建前と本音の使い分けをしているのは我々でなく、むしろ彼らのような気がする。


posted by homer_2006 | サディズムに花束を!
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