杜子春 (中国・隋) − この落第書生が唯一忘れることの出来なかった『人の心』とは?

3908c913.jpg意外なことに、杜子春は実在の人物だった。
北周から隋にかけての人である。

さて、論に入る前に余談を。日本ブログ村に関してである。
このところであるが、掲示板上において代表の方のコミュニケーションの機会を持った。
人間賛歌… 人の持つ心の素晴らしさということで、共感できる部分を見出せたことは幸いである旨を報告する。
先様であるが。
どうしても、お立場の関係で玉虫色発言とならざるを得ないのだが、それはそれで意義はある。
ちょうど、中国落第書生・杜子春の伝記を親子情話に脚色し、短編に仕立てた芥川龍之介・代表作の如くに。

さて、本論に入ろう。
伝記というよりも伝承か?
余りにも有名な芥川の小説には触れるまでもなかろう。
杜子春は、打たれながらも恨み言ひとつ言わず息子のことを思い遣った母に感じ入り、約束を忘れ口を開いてしまった…
このクライマックス部が、実は原作からは離れた脚色なのである。

原作を読むに。
責め苦を受けたのは両親ではなく、彼の妻である。
そして子春は(道士との約束どおり)口を開こうとしない。
妻はなじる。ふつつかながら10年も連れ添った妻、別にひれ伏して命乞いをしてくれといってるのではない、たった一言発してくれれば自分は責め苦から解放されるのに、それすらしてくれないのか?、と。

このように原作では情話では終わらせず、更に話は続くのである。
後先になったが、眼前で妻がなぶり殺しにされる場面では、子春は未だ存命だ。(攻め立てているのは閻魔ではなく、魔神将軍)
その後、彼は切り殺され、地獄へと、閻魔王のもとへと赴くのである。
一通りの地獄責めのあと、匙を投げた閻魔は子春を現世に生き帰させる。但し、陰の気を受けた賊であるから女に生まれかわらせられる。

こうして、女に生まれ変わった杜子春は生まれつき病気がちで、苦しみの絶えることはなかった。それでもどうしても声が出ない。
やがて成長して絶世美女となった彼は、郷士の下に嫁ぐ。子供も生まれて仲むつまじく暮らしていたのであるが。
ある日のことだ。
子供を抱いている子春に夫が話しかける。勿論、子春は黙ったまま。
とうとう、夫はかっとなった。

「男たるものが(美貌を鼻にかけた)妻にバカにされるくらいなら、子供など持たぬほうがましだ!」

そういうなり、子供を石の上に叩きつけてしまうのである。
無残にも頭の砕け散った子供の姿に、杜子春は道士との約束を忘れ、声を発してしまうのである。

「あっ!」

その「あっ!」の声が終わるか終わらないかのうちに、子春の身体は元居た道士の小屋に戻っていた。
実験は失敗。
つまり彼の心は、喜、怒、哀、懼(く)、悪(お)、欲の6つまでは忘れることが出来た。最後の一つ、愛だけは忘れることができなかったのである。

いかがであろう? そもそもの杜子春説話を掻い摘めば、かくの如しだ。
上記の七文字、これが人間の持つ感情の妙味だと論者は思うのだ。
非常に矛盾的、到底理屈や言葉などでは現せるのではない。
そして、子春が忘れることができなかった最後の一文字…

これこそが、矛盾の最たるものと言えよう。
このブログの趣旨に通じるところも大きい。既に多くの人物で…

かく言った意味で「SMは愛」というのであるなら、論者も賛同する。



posted by homer_2006 | サディズムに花束を!
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