須磨利之


 戦後の混乱期、まだその方向性が見いだされずにいたSM文化のベクトルを、ある意味で決定的に方向づけた人物が、「奇譚クラブ」の編集者として知られる須磨利之だ。

 生年は定かではないが(1985年に亡くなっている)、第二次大戦に出征していること、「奇譚クラブの人々」(河出文庫)に「72年の生涯を閉じた」という記載があることから、少なくとも大正時代に生まれた人だ。親は京都で大きな印刷会社を経営しており、わりと裕福な環境に育つ。実家の蔵には春画や縛り絵などが豊富にあり、当時の若者の目にはまず触れることのなかったアブノーマルな世界を見つめながら思春期を過ごした。本人いわく、若い頃から緊縛に興味があったという。幼少の頃、母親が全裸で縛られて叔父に折檻を受けているシーンを目撃してしまったエピソードも「奇譚クラブの人々」で紹介されている。

 こうして培われた感性により、まだその概念が日本に存在すらしなかった時代、すなわち誰にも理解不能だった得体のしれない 「SMのようなもの」が、須磨の頭の中で芽生えていたのである。(SMという言葉が人口に膾炙する以前は、同意語的に「縛り」や「緊縛」という表現が使われていた)

 この芽が敗戦の混沌の中、徐々に花咲いていくことになる。

 九死に一生を得て復員してきた須磨は

生きて帰ったら女を縛ったりして好きなことをして暮らす

と決意していた。(それにしてもスゴイ決心だなあ〜 ^^ 帰還兵は偉大です)

 しかし元来はフェミニストである須磨にとって、いわゆるサディスティックな気持ちから女を縛りたいと思っていたわけではなかったようである。戦時中ならいざ知らず、いくら紳士的に趣味的にといったところで、そういう行為は狂人か犯罪者のするものというご時世。出会い系などなどあるわけもない。仕方なく、遊廓で行われていた見せ物的なお芝居で、女が縛られるシーンを演出し、女優を縛ったりする舞台監督兼「緊縛師」として日銭を稼いでいた。これは飛田遊廓で「縛られ女郎ショー」として上演され、責め絵の巨匠として知られる伊藤晴雨も来ていたらしい。
 その傍ら、大阪で出版されていたカストリ誌「奇譚クラブ」の編集に参加することになり、今でいうグラビアページに初めて女性緊縛写真を登場させたのも須磨である。「奇ク」の発行人で経営者でもあった吉田稔は元新聞記者で、前例のない「女の縛られた写真」を誌面に載せることには否定的だった。公序良俗に反するというよりも、売れるとは思っていなかったのである。しかし戦友でもある須磨の提案と説得に折れ、本邦メディア史上初の女性緊縛写真が「奇ク」に載った。それと前後して、日本画家でもある須磨は挿し絵として女性の緊縛イラストを試験的に描いていた。一説では伊藤晴雨の弟子とも伝えられる須磨の「責め絵」は、喜多玲子のペンネームで次々と発表され、大反響を得る。吉田の予想に反して、女性緊縛図は大衆の支持を受けたのだった。

 こうして戦前までは得体の知れなかった何か、大雑把には「あぶ(=アブノーマル)」とういうくくりでしか理解されていなかった「SM」に明確な具体性が与えられた。

 すなわち緊縛の美学という新しい主題が意識されるようになり、その美の信奉者の数は「奇譚クラブ」を媒体として日本全国に増えていったのである。

 女性を縛るという観点からSMを定義した須磨だったが、彼自身にはマゾヒスティックな面もあったようだ。
 男性マゾヒズム願望を初めて大々的に取り上げた1952年の奇譚クラブ7月号「 女天下時代 」という巻頭記事も須磨の手によるものだった。

  (この項続く...)





posted by homer_2006 | Comment(0) | マゾヒズムに花束を!
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